名古屋地方裁判所 昭和34年(ワ)1949号 判決 1962年10月12日
原告 阿部嘉重
被告 国
訴訟代理人 河津圭一 外七名
主文
原告の請求は棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の申立
原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し金六十万円およびこれに対する昭和三十四年九月二十六日以降右金員完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに担保を条件とする仮執行の宣言を求め、
被告指定代理人は、主文同旨の判決を求めた。
第二当事者の主張
〔一〕 原告訴訟代理人は、請求の原因を次のとおり述べた。
一、原告はその家族と共に名古屋市港区南陽町大字藤前字ホの割十番地に居住していた者であるが、昭和三十四年九月二十六日午後八時頃、いわゆる伊勢湾台風が東海地方一帯を通過した際、南陽町を囲む堤防は別紙一図面(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)、の個所において決壊し、潮流が同町一帯を瞬時に襲つたため右(イ)の決壊口近くの原告の居宅はたちまち激流に呑まれ、同家屋内において避難命令のなきまま待機していた原告の妻阿部ふじ(当時四十一歳)、長女同静枝(当時十八歳)、長男同嘉雄(当時九歳)の三名はそのまま潮流に没し翌朝死体となつて発見された。
二、元来南陽町一帯の土地は海面より低く周囲を囲む堤防は同所に居住する住民にとつて生命線ともいうべきものであり、被告および被告の機関として同堤防を管理する愛知県知事は同所に居住する住民を津浪、波浪、高潮海水または地盤の変動等より生ずることあるべき被害から防護するため同堤防につき万全の管理をなすべき義務を負つていた。
三、しかるに同堤防には次のごとき設置および管理の瑕疵があつた。
(一) 設置の瑕疵
(イ) 同堤防は十分な高さを持たなかつた。
南陽町一帯は木曽川河口のデルタ地帯であつて、もともと海面より低く地盤は軟弱であつて年々地盤沈下の傾向著しく、そのため同堤防は伊勢湾台風当時約四ないし五メーメル程度の高さに過ぎず異常高潮に対する何らの考慮も払われていなかつた。伊勢湾台風が襲つた昭和三十四年九月二十六日午後九時三十分頃は満潮時であつてその潮の高さおよび偏差波浪を考慮すると通常時より七メートルの波高にあつたが、堤防の高さがこの波高を上まわつていれば決壊することはなかつたと考えられるのである。
(ロ) 同堤防の一部は土盛りのままか、あるいは裏法が土であつたばかりでなく、その排水口の設置にもまた工事上重大な瑕疵があつた。
別紙第一図面(イ)の個所は約百メートル近くにわたり決壊しているが、この個所には当時水門が設置されていてその水門の右側は土盛の堤防がコンクリートの堤防に接続しており、水門の左側は土盛の堤防があつてこの間波に対する強度のバランスがとれていなかつた。水門は波の強く当る潮筋に設置されるものであるから、排水口の工事は強度のバランスを考慮して一貫してなくその周囲にはコンクリートの堤防を設置しておくべきにかかわらず本件の堤防にはかかる考慮は払われていなかつたのである。
別紙第一図面(ロ)、(ハ)、(ニ)の各決壊個所の堤防は、その表法のみコンクリートで被覆されていて裏法は土盛りのままであつたから堤防をのり越えた波浪がこの部分の土を削り取つたために堤防は決壊したのである。南陽町一帯の堤防については、昭和二十八年の第十三号台風の経験から表法は勿論天端、裏法をもコンクリートで被覆すべきことが災害を防止するため不可欠の要請となつていたのであつて、被告においてもこの点は十分承知しており同台風直後の建築計画では裏法もコンクリート造りにすることとなつていたのであるが、二、三年後復旧予算が約百億円削減されたため、土盛りのまま設置されていたもので、堤防としての安全性を欠いていたのである。
(ハ) 同堤防はその工事施行に一貫性を欠いたため、各期工事の接目が弱かつた。南陽町一帯を囲む堤防の工事施行は、各工期にこれを分け順次施行されたが、各工期に建設された堤防の接目の工事に手落ちがあり堤防の各部分の連絡が不十分であつたため、著しく堤防としての強度を欠きこの弱い接目部分から決壊に至つたものであつて前叙の決壊個所はいずれも接目部分である。この点から見るも同堤防はその設置に瑕疵があり堤防として通常備うべき安全性を欠いていたものである。
(二) 管理の瑕疵
(イ) 南陽町を囲む堤防は、昭和十九年の東海地震による〇・六ないし〇・七メートルの地盤沈下およびその後の地盤沈下の影響を受け当初六メートルの堤防であつたものが台風当時においては四ないし五メートルとなつていたのであつてその高さが十分でなく、その構造において不備があり耐久性に欠けている状態にあつたので、原告を含む南陽町一帯の住民は昭和二十八年の第十三号台風以後過去の経験に鑑みこのままの状態では災害が発生する虞あることを再三再四指摘し、被告の機関たる中部建設局津島出張所または愛知県知事に対し、堤防の補修補強をなすべきことの陳情を重ねていた。また昭和二十九年総理府資源調査会水害地形小委員会は、木曽川、長良川、揖斐川流域の平野に高潮が襲つた場合生ずることあるべき被害の場所、被害の程度、溢水・排水の状態等につき調査をなしたが、その調査の結果によつても、南陽町一帯が危険区域にあることが明らかになつている。かかる陳情および調査の結果によつて、被告および愛知県知事は、南陽町を囲む堤防が通常備うべき安全性を欠いていたことを十分に知悉しており、したがつて堤防を計画高水位の改訂、補修補強工事の施工等堤防の安全性を確保する手段をとるべき管理者としての義務あるにかかわらず慢然これを放置し高潮による被害防止に対し何ら対策を施さなかつたのである。
(ロ) また高潮による被害防止対策として例えば四日市の牛越堤防は昭和三十年の第十五号台風の経験により海岸堤防は堅固にまさるものなしとしてテトラポツト工法を取入れ、タコ足を組合せて敷きつめ空間を多くし高潮の大波を砕いて水勢を殺す方法をとつている。このため同堤防は数倍の耐久力を示し伊勢湾台風に際しては決壊を免れたのであるが、かかる点から考察すれば、管理者の十分な管理があれば災害は未然に防止できるのであつて、本件の堤防の決壊は不可抗力によるものではなく、被告の管理の瑕疵に基くものであるといわざるを得ない。
(三) 本件の堤防には叙上のごとき設置および管理の瑕疵が存したのであるが、そもそも堤防の使命・存在理由は、河水海水の侵入を防ぎ高潮に備え、もつて国土住民の安全保護を図るにあり、国民もまたこれを信頼して堤防内の土地に居住し勤労にはげむのである。したがつて堤防の通常備えるべき安全性とはこの国民の信頼を裏切らず国民の生命・財産を保全するに足るだけの構造を備えていることを意味する。最も危険にして有害なのは台風が来襲すれば決壊するような堤防を設置存在させ、堤防の安全性を信頼する国民を台風により死に追込む結果を招来することである。この点からして堤防が決壊した以上、その決壊の原因が過去になかつた超大型台風にあつたにせよ、決壊したこと自体によりその堤防は堤防として通常備うべき安全性を欠いており瑕疵があつたといわなければならないのである。この意味においても、本件の堤防には瑕疵があつたのである。
四、以上述べたところにより、原告の妻、長女、長男の三名が死に至つたのは、正に被告の管理する本件の堤防の設置および管理の瑕疵に基因することが明らかである。家族の死亡により原告の蒙つた精神的苦痛は大きく損害は莫大であるが、本訴においてはこれを金六十万円と算定する。
五、よつて被告は原告に対し右損害金六十万円とこれに対する損害の発生日たる昭和三十四年九月二十六日以降右金員完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払をなすべき義務がある。
〔二〕 被告指定代理人は、答弁ならびに被告の主張を次のとおり述べた。
一、請求原因第一項の事実は認める。第二項中南陽町を囲む堤防の内日光川河口より新川河口に至る南陽海岸堤防(別紙第一図面間<3><4>間の堤防)の管理者が被告であるとする点は否認する。同堤防は愛知県がその固有事務として管理しているものである。その余の点は認める。第三項中同(二)(イ)に述べられている陳情の点につき、昭和三十三年藤高土地改良区より津島土木出張所長あてに南陽海岸および新川河口部位の堤防を強化することに関する請願書(但し原告主張の(イ)ないし(ニ)の決壊個所の区域は請願の対象となつていない)が提出された事実はあるが、その余の事実は否認し、詳細の点は次項に主張する。第四項、第五項は否認する。
二、請求原因第三項に対する被告の主張は次のとおりである。
(一) 南陽町を囲む堤防には設置の瑕疵はない。
(イ) 原告は同堤防が十分の高さを持たなかつたと主張するが、同堤防の高さは過去の最高潮位を基準としてこれに科学的に算出された計画波高を加え、更に〇・五メートルの余裕をみたものをもつて計画堤防高としたものであつて、過去におけるいかなる高潮にも堪え得るだけの十分な高さを有していた。
愛知県においては、昭和十九年以後東海、三河および南海の三大地震が相次いだため、昭和二十三年以来国庫の補助を受けて年々経常的に堤防の維持修繕を行うほか台風等による被災個所については、その都度復旧工事を施行してその維持に努力すると共に、積極的に堤防の改良を図つて来た。特に昭和二十九年以降の改修工事は南陽海岸局部改良事業(本来は愛知県がその固有事務として管理する南陽海岸の改良事業であるが、綜合的に改良事業を行う実際上の必要から河川法適用河川たる新川の河口から上流約六〇〇メートルまでの地点および準用河川たる日光川の河口から東小川の河口に至るまでの地点をも含めてその事業区域としている)として施行されて来たものであり、該工事の基本となつた考え方は、昭和二十八年九月三河地方を襲つた第十三号台風の際よりも潮位の高かつた大正十年九月二十六日の台風の際の異常高潮に堪え得るように堤防を改良することを目的としたものであつて、これを基準として計画されている。すなわち大正十年の右異常高潮は東京湾中等潮位上(以下高さは東京湾中等潮位を基準として算出したもの)二・九七メートルであるから、これに推定波高を加え、更に余裕高〇・五メートルをみた六メートルを海岸部分の堤防の高さとして、日光川等河川部については、上流に行くに従つて潮汐の影響は漸次低下するので堤防の高さもそれにつれて若干低くした。かくて本件の堤防は別紙第一図面(ニ)点、(ハ)点の附近において五・七〇メートルの高さとし、(イ)点よりやや南の内堤防との交叉点附近は、五・一七メートルの高さとし、同(イ)点附近の堤防は日光川より北に入つた河口幅約四十メートルの小入江であつて波浪の影響が少ないため前叙の堤防より低くて足りるとして四・五二メートルの高さに築造されている。このように、本件の堤防は、その高さ四・五二メートルを最低として潮汐の影響を受ける度合が強くなるにつれて五・一七メートルより五・七〇メートルと順次高さを増しつつ既往最高の潮位に見られる最悪の波浪をも防護しうるように築造されている。同堤防の工事は、昭和二十九年度施行分二百九十八・八メートル、三十年度同二百四十三メートル、三十一年度同三百九十四・六メートル、三十二年度同三百四十三メートルであつて、いずれも伊勢湾台風当時には完成していた。
以上のとおり本件の堤防は過去の経験上十分な高さを持ち安全性に欠けるところがなかつた。
(ロ) 原告は別紙第一図面(イ)点の個所に水門が設置されていたと主張するが、同所には水門は存在しない。したがつて水門の設置を前提とする原告の主張は失当である。
更に本件の堤防の構造は別紙第一図面(イ)点の個所を除いていずれも土砂をもつて堤体とし、表法は玉石または割石をコンクリート等で練積みし、その上部はコンクリートパイルを堤体に打込んで補強された波返しをもつて構築されているものである。また(イ)点の個所は、日光川より北に入つた河口幅約四十メートルの小入江であつて波浪の影饗が極めて少ないので堤体は右各個所と同様土砂であるが、表法は中等潮位上約一・五〇メートルまでは玉石張りで構成され、その上部、天端、裏法はその他の張り芝でもつて張り固めている。この構築方法は、これまでに経験した各種高潮の資料を基礎に割出された施工法であり、既往最強度の高潮をも防護し得るものであつてこの種堤防としては、通常備うべぎ安全性を十分に保有していた。従つて別紙第一図面(イ)点の個所の堤防および同(ロ)、(ハ)、(ニ)の各点の個所の堤防の裏法が原告主張のとおりコンクリートで固められていないことは認めるが、そのこと自体でもつて、堤防の構造に瑕疵があるとはいい得ないのである。
(ハ) 請求原因三、(一)、(ハ)の主張事実は否認する。
(二) 本件の堤防には管理の瑕疵はない。
(イ) 被告は本件の堤防についての地盤沈下その他の原因に基く災害に対し、常に補修改良を加えその安全性維持に努力して来た。同堤防の地盤沈下は、主として昭和十九年十二月七日の東海地震、同二十年一月十三日の三河地震、同二十一年十二月二十一日の南海道地震に基因するもので、これら地震によつて南陽町附近は旧東海道一等水準点一四七六、同一四七七附近において約〇・三メートル、本件海岸堤防附近において約〇・七メートル地盤沈下が生じたものと推定されたので、被告は昭和二十三年より同二十八年にかけて地盤沈下復旧事業として南陽町附近の堤防のかさ上げ工事を実施したのである。すなわち日光川左岸堤防については、部分的には右地盤沈下災害復旧事業実施前においてすでに昭和二十年一月をよび同年二月頃に、かさ上げおよび石積み復旧を施行したが、右地盤沈下災害復旧事業としては、昭和二十五年度に〇・六二ないし一・四二メートルのかさ上げを全体にわたつて施工した。東小川堤防については、同年度に、この個所については海上からの波浪が直接堤体に激突する危険はないので、感潮河川としての高潮位と海面のうねりを考慮して〇・三八ないし〇・六二メートルのかさ上げをして復旧につとめたのみならず、玉石張についても野面石張工により一・五メートルの線まで〇・五四ないし一・二六メートルを継ぎ足して補強した。
右地盤沈下復旧事業と並行して昭和二十三年から同二十六年にかけて南陽海岸災害防除事業とし、南陽海岸堤防の高さを五・八五メートルとなるように波返えしを設置したが、昭和二十八年の第十三号台風の経験に基づき日光川および新川堤防についても、海岸堤防と同様の波返えしを設置することが望ましいと考え前叙二、(一)、(イ)に述べたとおり南陽海岸局部改良事業として昭和二十九年度から同三十二年度にかけて日光川堤防にも波返しを設置した。このように本件の堤防につき、小災害についてはその都度毎年災害復旧事業を行うかたわら、地盤沈下については地盤沈下災害復旧事業、南陽海岸局部改良事業等を実施し来つたもので、これらの事業により堤防の現状を維持するのみではなく、基本的計画にしたがつて計画高潮位を検討し、堤防に改良を加えるなどその維持、管理には年々多大の努力を払つてきたのであつて、管理に欠けるところはない。
(ロ) 本件の堤防にはテトラポツト工法の必要はない。
南陽海岸附近は、堤内地より海面が高く遠浅で平常は波が静かであり、また波浪が大きくなつた場合でも右地域一帯の堤防は石張の傾斜が比較的ゆるいので直立型堤防のように波力が下を向くことが少ないため堤防の根元を洗われる危険はなく、捨石、テトラポツト等水勢を殺す方法を取る必要はない。仮りにテトラポツト工法を取り入れるとすると、前叙のように堤防の根元を洗われる危険はないのに、かえつて異常高潮のときは、堤防の中等潮位上二ないし三メートルのところが洗われることになるので波返し附返に一個一トン以上のテトラポツトを多数置く必要があり、このため堤体に対して強圧を加えることとなり、そのため堤防沈下の現象をおこす虞が多分にあるわけであつて、財政的には多額の維持費を要するにかかわらず異常高潮の防護にはほとんど役立たない結果となる。したがつて本件の堤防にテトラポツト工法を施こさなかつたことは、堤防の管理の瑕疵となるものではないのである。
(三) 更に原告は被告において伊勢湾台風の高潮にも堪え得るだけの高さ構造を持つた堤防を築造していなかつたことをもつて、本件の堤防の設置および管理に症瑕があつたと主張するが失当である。国家賠償法第二条は、国または公共団体に自然公物たる河川に積極的に堤防を築造する義務があることを前提としていない。したがつて仮りに洪水の危険のある河川に堤防を作らずこれを放置し、被害の生じた場合において、国または公共団体に政治的責任の生ずることのあるは別として、堤防の設置しなかつたことを瑕疵として法律上賠償義務ありとすることのできないと同様、国または公共団体が進んで堤防を築造する場合、仮りにそれが記録上過去における最高水位を下まわる計画堤防高をもつて築造されたとしても右堤防の設置に瑕疵があると解すべきではない。けだし設計上最初から一定の水位までの洪水又は高潮を防ぐ計画の下に築造されているのであるからそれを上まわる高潮で災害が生じたとしても堤防そのものに瑕疵があつたのではなく、堤防があつたにかゝわらず災害が生じたのであり、かゝる場合過去の最高水位を標準にして堤防を設置すべきであるということは、政治的義務であるが法律上の義務とはいい得ないからである。
本件の場合は、前述したとおり設計上当初から過去における最高潮位を基準にしてこれに堪え得るような計画堤防高さをもつて築造されているのであるから、既往最高潮位を一メートルも超える伊勢湾台風の高潮を防ぎ切れなかつたとしても、それをもつて本件の堤防の設置管理に瑕疵があつたということができないことは明白である。
三、叙上のごとく、本件の堤防には設置管理いずれの瑕疵も存在しなかつたのであつて、その決壊は一に伊勢湾台風の異常高潮に原因するのである。即ち前記南陽海岸局部改良事業の堤防高決定の基準となつた大正十年九月二十六日の異常高潮二・九七メートルはその生起確率五百年以上に一回と推定される既往最高の潮位であつたが、今回の伊勢湾台風は室戸台風をしのぐ超大型の台風であり、昭和三十四年九月二十六日午後九時過ぎ名古屋からおよそ三十キロメートル西方をとおり高山の西、富山附近をへて、日本海沿いに進んだが、この進路は東海地方にとつては最悪のものであつて名古屋では午後九時二十五分最大瞬間風速四十五・七メートルという気象台開設以来の記録を示した。そして台風来襲時が翌二十七日午前零時四十五分の満潮時に近く、伊勢湾が台風の中心の右側にあるという悪条件が重なり、名古屋港で午後九時三十五分最高潮位三・八九メートルに達したのである。これに波高を加えた波頂高は実に六・三二メートルであつて、かゝる予想を絶する異常な高潮が本件の堤防に激突したため、過去におけるいかなる高潮にも十分堪え得るよう設計されていた本件堤防も決壊のやむなきに至つたのである。
四、以上のとおり本件の堤防の決壊は異常高潮という不可抗力に基因するものであるから、決壊によつて生じた原告の損害も不可抗力に基く損害といわざるを得ず、したがつて法律上被告に賠償義務ありとすることを得ないのである。
第三当事者の立証<省略>
理由
一、原告がその家族と共に名古屋市港区南陽町大字藤前字ホノ割十番地に居住していたこと、この南陽町一帯の土地はもともと海面よりも低くしたがつて周囲を囲む堤防が同所に居住する人々にとつて重要な役割を果していたこと、ところが昭和三十四年九月二十六日午後八時頃いわゆる伊勢湾台風が東海地方一帯を通過した際、南陽町を囲む堤防は別紙第一図面(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)の個所において決壊し、潮流が同町一帯を瞬時に襲つたために前叙(イ)の決壊口近くの原告の居宅はたちまち激流にのまれ、同家屋内において避難命令のなきまゝ待機していた原告の妻阿部ふじ(当時四十一才)、長女同静枝(当時十八才)、長男同嘉雄(当時九才)の三名がそのまま潮流に没し、翌朝死体となつて発見されたことは当事者間に争がない。
二、弁論の全趣旨によると、南陽町を囲む堤防は、東小川左岸(左岸とは上流から下流に向つて左側の河岸をいう、以下同じ)の東小川堤防(別紙第一図面<1><2>間の部分)、日光川左岸の日光川堤防(同<2><3>間の部分)、南陽海岸に面する南陽海岸堤防(同<3><4>間の部分)、新川右岸の新川堤防(同<4><5>間の部分)よりなり、原告が原告の損害の原因として主張する同図面(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)の決壊個所はいずれも東小川、日光川堤防に存することが認められ、この両堤防(以下本件堤防と称する)が被告の管理下にあることは当事者間に争がない。よつて次項以下本件堤防の決壊が堤防の設置または管理の瑕疵に基因するものであるか否かを検討する。
三、堤防の設置または管理に瑕疵があるとは、堤防の築造およびその後の維持、修繕、保管作用に不完全な点があつて、堤防が通常備えるべき安全性を欠いている状態にあることを意味するが、いかなる場合に堤防が通常備えるべき安全性を欠いているかの判断の基準について当裁判所は次のように考える。
そもそも国または公共団体が堤防を設置してこれを管理する目的は、堤防によつて国土を保全し住民の生命財産等を保護するにあるのであるから、堤防は右目的を達成するに足るだけの安全性を保有する構造を持たなければならず、したがつて通常発生することが予想される高潮等の襲来に対してはこれに堪え得るものでなければならない。海岸法第十四条に、海岸保全施設築造の基準が定められているのもこの趣旨にでたものと考えられ、同条の精神は河川堤防等海岸保全施設以外の保全施設にもおよぼされるべきものと解されるから、河川堤防においても高さは異常高潮位、波高、砕波の状況等を考慮して定め、法勾配および天端幅は堤体の形式および地磐ならびに使用材料の種類性質を考慮して定め、表法は波力に堪え、海水その他による浸触摩耗ならびに表法背面の土砂の流失を防止し得る構造とし状況によつては表法に波返しを設け、天端・裏法には被覆工その他の補強工事を施す等、堤防設置場所の状況に応じた安全な構造を持つよう設置し、かつ、これを管理しなければならないと考えられる。したがつて設置者および管理者においてかゝる考慮を払わずに堤防を設置し、その安全性維持について管理をつくさない場合には堤防の設置または管理に瑕疵あるものとして、これに基因する損害を賠償すべき義務があるというべきである。この見地から以下本件堤防の計画堤防高、構造等が妥当なものであつたか否かを考慮する。
四、昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風来襲以前における本件堤防に対する補修改良等の工事施行の状況、および右工事施行による本件堤防の状態について、成立に争のない乙第三号証の五・六、同第八号証の一ないし、四、同第九、十、十一号証の各一、二、同第十二、十三、十四号証、同第十六ないし第二十八号証同第三十五号証の一、証人橋本規明の証言により真正に成立したものと認められる乙第二十九号証、証人藤田泰二、同松井裕の各証言、および検証の結果並びに弁論の全趣旨を綜合すると次の事実が認められる。
(イ) 先づ日光川堤防については、昭和二十五年度において日光川通り左岸堤防かけ上げ復旧工事として同堤防にかさ上げを施工することとなり、第一期工事は昭和二十五年四月十九日着手され、同年五月十九日竣功し、同年九月七日竣功検査が行なわれ、第二期工事は同年八月二十三日着手され、同年十一月二十日竣功し同年十二月二日竣功検査が行なわれて完成した。この工事は、従来日光川河口地点(別紙第一図面<3>の地点)の工事起点において約五・三八メートルそれより上流に沿つて除々に高さを減じ東小川河口との合流点(別紙第一図面<2>の地点)の工事終点において約四・一二メートルの高さを有した同堤防に、最低零メートルから最高一・四二メートルのかさ上げを行つたもので、同工事完成後日光川堤防は、前叙の工事起点において約五・三八メートル、上流に沿つて高さを減じ同地点より約六〇〇メートル上流の地点において約五・〇八メートル工事終点において約四・七四メートルの高さを有することとなつた。その天端幅約二・〇〇メートル、裏法の勾配約一対一・五である。
その後昭和二十九年度から昭和三十二年度にかけて南陽海岸局部改良事業の一環として日光川堤防の表法にコンクリートによる波返しを設置すると共に天端幅を拡大する工事が行なわれた。同工事は、日光川河口地点(別紙第一図面<3>の地点)から上流沿いに、昭和三十一年度施行延長百九十四・六メートル、三十年度第二期同百四十九・二メートル、三十年度第一期同九十三・八メートル、二十九年度同二百九十八・八メートル、三十一年度同二百・〇メートル、三十二年度同三百四十三・〇メートル計千二百七十九・四メートルとして施工され、最終の昭和三十二年度工事の竣功は昭和三十三年三月三十一日、同年五月七日頃竣功検査が行なわれて、全工事が完成した。同工事により築造されたコンクリート製波返し天端高は、日光川河口地点(別紙第一図面<3>の地点)において五・七〇メートル、上流沿いに除々に高さを減じ、各工期工事終点において五・五九メートル、五・五一メートル、五・四六メートル、五・三〇メートル、五・一九メートルを経て、東小川河口との合流点(別紙第一図面<2>の地点)において高さ五・〇一メートルであり、その構造は大略別紙第二図面のとおりである。
かくて、同工事完成後の日光川堤防は土砂をもつて堤体とし表法はその下部に緩勾配の割石コンクリート練張を有し、その上部に前叙の高さと構造を持つコンクリート製波返しが、コンクリート基礎の上に約一メートルの間隔に千鳥打ちされている基礎杭によつて固定されており、天端幅約三・八メートル、裏法の勾配は従来と変らず一面に篠竹、かや等が密生しているといつた状態にあつた。
(ロ) 次に東小川堤防について見ると、同堤防に対しては昭和二十八年度において東小川通り左岸堤防護岸復旧工事として、かさ上げおよび表法の護岸工事を施工することになり、工事は昭和二十九年二月二十三日着手、同年三月三十一日竣功、同年四月中に竣功検査が行なわれて完成した。
この工事は、従来東小川河口地点(別紙第一図面<2>の地点の工事起点において高さ三・九六メートル、河口より約七百三十二メートル上流にある工事終点(別紙第一図面<1>の地点)において高さ四・二六メートルであつた同堤防に、最低〇・三八メートル最高〇・六二メートルのかさ上げを行い、かつ表法下部の野面石張部分を最短〇・五四メートル最長一・二六メートル延長する工事を施すものであつた。
かくて同工事完成後の東小川堤防は、土砂をもつて堤体とし、全長にわたりその高さ四・五八メートル、天端幅二・五〇メートルないし三・〇〇メートル、表裏法とも勾配約一対一・五、表法の下部中等潮位上約一・五〇メートルの高さまで野面石張工が施され、その上部および裏法には篠竹が密生しているといつた状態にあつた。
五、以上認定のごとき本件堤防の計画堤防高が妥当なものであつたか否かについて、成立に争のない乙第一号証の一、二、同第二号証、前顕乙第二十九号証、証人藤田泰二、同松井裕、同橋本規明、同安芸元清の各証言を綜合すると次のとおり判断できる。
日光川堤防の計画堤防高は、名古屋港における既往最高潮位である大正十年九月二十六日の二・九七メートルを基準にとり、これに東南の風、風速毎秒二十五ないし四十メートルと想定し対岸距離五十キロメートルとした場合の沖波の水面上波頭までの高さ二・八〇メートルを算出し、この値から高潮位上波頭までの波高約一・五〇メートルを得、更に砕波重復波の影響を右波高の約三割と見て高潮位上波浪の高さを約一・九五メートルと見つもり、これを前記既往最高潮位二・九七メールに加えて一応波浪に越されない堤防高四・九二メートルを算定し、更に若干の余裕を見込んで日光川河口地点(別紙第一図面<3>の地点)において五・七〇メートルの堤防高とし、これより上流に向うに従つて高潮波浪の影響が漸次弱まることを考慮して高さを減じ、東小川河口との合流点(別紙第一図面<2>の地点)において五・〇一メートルと決定したことが認定できる。この基準とした既往最高潮位二・九七メートルの高潮は、平均高潮位一・七三メートルの名古屋港において、大正二年以降昭和三十三年までの観測中唯一回しか生起していない高潮であつて(ちなみに、同年間における名古屋港の二メートルを越す高潮は、大正二年十月三日の二・三四メートル、同六年八月三日の二・〇二メートル、同十年九月二十六日の二・九七メートル、昭和二十六年十月十五日の二・二四メートル、同二十八年九月二十五日の二・六二メートルの計五回である)、その生起確率約五百年以上に一回と推定されるものであり、波高算出の基礎となつた風速四十メートルは、伊勢湾台風の風速を上まわるものであつて、いずれも本件堤防の計画堤防高を定めるに十分妥当な値であると認められる。したがつてこれより算定された本件日光川堤防の堤防高は、波返し施工前の同堤防が昭和二十八年九月二十五日の二・六二メートルの高潮にも堪え得たことと考え合わせると伊勢湾台風前において十分な高さであるということができる。
一方東小川堤防の堤防高は前述のとおり全長にわたり四・五八メートルの高さを有していたのであるが、同堤防はその河口地点が日光川河口より約千二百八十メートル上流にあり、かつ日光川堤防の陰に位し川幅約四十メートルの小入江に面する堤防であるから波浪の影響は日光川堤防に比しよほど減殺されると考えられ、この点および前叙二・六二メートルの高潮に堪え得た点を考え合わせれば、これまた伊勢湾台風前においては十分な高さを有していたと見るべきである。
六、次に本件堤防に対する地磐沈下の影響であるが、右認定のとおり十分な高さを持つ堤防が日光川においては昭和三十三年三月三十一日、東小川においては同二十九年三月三十一日に竣功されているのであるから、地磐沈下の影響は、この竣功以降伊勢湾台風来襲時までに、如何ほど地磐が沈下しそれにより堤防の高さが減じたかを考察すればよいこととなる。成立に争のない乙第三十四号証の二・三によれば本件堤防附近の名古屋市港区南陽町西福田所在の一等水準点第千四百七十六号地点において、昭和二十八年から同三十六年に至る期間の沈下量約〇・〇九六四メートル、同町東福田所在の同第千四百七十七号地点において、同期間中の沈下量約〇・〇七三九メートルであるから、これと前顕証人の各証言とを綜合すると本件堤防に対する地磐沈下の影響はほとんどなく、特に計画堤防高の改訂を必要とせしむるほどの影響は何ら与えていないことが認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。
七、日光川堤防の天端および裏法、東小川堤防の表法・天端および裏法にコンクリート被覆が施されていないことは、当事者間に争のない事実であるが、この点が本件堤防の瑕疵となるかについて、前顕乙第二十九号証および証人矢野勝正、同藤田泰二、同松井裕、同橋本規明、同安芸元清の各証言を綜合すると、伊勢台風前においても海岸堤防についてはコンクリートによる表法、天端、裏法の三面被覆は理論上これをなすことが望ましいと考えられていたが、なお一般的には天端・裏法の補強度は堤防の高さとの関係において考察され、堤防の高さが十分である場合には、天端・裏法は波浪が堤防の表法に衝突して生ずるしぶき等の跳波による洗掘を防ぐに足る強度を有していればよいとの考え方が支配的であつたことが認定でき、この見解は、伊勢湾台風後の海岸堤防については再検討の要ありと考えられるが、なお一般的には妥当な見解と認めざるを得ない。しかして前顕証拠によると、日光川堤防は比較的良質の粘度をもつて構築され、かつ古くからの堤防をそのまま利用しているので長年月の間にすつかり安定しており、裏法は篠竹が一面に密生していたことが認定できるから、高さにおいて十分なコンクリート製波返しを表法としていた同堤防の天端および裏法としては跳波に対し十分な強度を有していたと認めるのを相当とする。東小川堤防の土質、安定度、裏法の被覆については日光川堤防と略同様のものであつたと認定できるから、高さにおいて十分であつて、かつ波浪の影響の少ない同堤防の天端および裏法としては一応十分な強度を有していたと認めて差つかえない。このことは、成立に争のない乙第三十二、三十三号証と証人橋本規明の証言によつて認められるところの鍋田干拓地の堤防の決壊状況と本件堤防の決壊状況の対比によつてもうかがわれるところである。証人矢野勝正の証言中、右認定に反するごとき部分があるが、同証言全体との関連において見れば、必ずしも右認定に反するものではない。
八、その他原告主張の別紙第一図面(イ)地点附近に水門があつて、その前後の堤防が強度においてバランスを欠いていたとの事実および各期工事の接目に欠陥があつたとの事実は、本件全証拠によるもこれを認定することができず、またその他本件堤防の改良工事竣功後被告の管理に欠けるところがあつて同提防に瑕疵が生じたといつた事情もこれを認めるに足る証拠はない。本件堤防にテトラポツト工法が施工されていないことは弁論の全趣旨に徴してうかがうことができるが、同工法の施工が本件堤防の安全保持について不可欠であるといつた必要性は本件証拠によつては認めることはできない。
以上認定のとおり本件堤防は、同堤防の位置にある堤防として既往最高の高潮に堪え得るだけの高さと構造を有しているのであるから、同堤防として通常備えるべき安全性を保有していたと認めざるを得ない。
九、原告は更に、堤防が決壊した以上、その決壊の原因が過去になかつた超大型台風にあつたにせよ、決壊したこと自体により瑕疵があるといわなければならないと主張するが、国家賠償法第二条、民法第七百十七条の規定がかゝる意味を持つとは認めがたく、前記三において述べたところから明らかなように、計画堤防高の決定その他堤防の設計において妥当であり、設計どおり堤防が築造されかつその後の補修等管理に欠けるところがなければ、堤防は通常備うべき安全性を保有していたというべきであつて、それが築造当時予見され得なかつた高潮等により決壊することがあつても、それは不可抗力による災害と認めざるを得ず、堤防の設置または管理に瑕疵があつたということはできない。但し、十分な設計の下に築造されていて表面上何らの瑕疵も認められない場合にも、かゝる堤防が計画堤防高以下の高潮でもつて他に特別の原因もなく決壊している時には、その堤防には工事の手抜き等隠れたる瑕疵があつて、通常備えるべき安全性を欠いていたと認定して差つかえないと考えられるので、本件堤防についてもこの点の検討が必要である。
十、昭和三十四年九月二十六日午後東海地方を襲つた伊勢湾台風が同地方にとつては未曽有の超大型台風であつて、台風が名古屋の西およそ三十キロメートルの西方を通過したため、名古屋においては同日午後六時頃から同十一時頃まで風速毎秒二十ないし三十数メートルの主として南東の風が吹き、伊勢湾においてはこの風向は最悪のものであり、かつ来襲時が同湾の満潮時に近かつたため、過去に例を見ない異常高潮が生じたことは公知の事実であるが、成立に争のない乙第一号証の一、二、同第二号証、同第十五号証、同第三十一号証の三および証人橋本規明の証言を綜合すると、名古屋地方気象台の観測では、同台風の名古屋地方における最低気圧九百五十八・三ミリバール、南南東の風最大風速三十七メートル、瞬間最大風速四十五・七メートル、これによつて生じた名古屋港の最高潮位東京湾中等潮位上三・八九メートルであつたこと、この高潮位は名古屋港検潮記録上大正二年以来始めて三メートルを越す記録であつて、過去の最高潮位二・九七メートルを約一メートル近く超過し、その生起確率は確率上表わせないほどの異常高潮であつたこと、更にこの高潮に加え、波高は名古屋港おいて二・九〇メートルしたがつて砕波の影響を無視しても同台風によつて同港では六・九七メートルの波高を持つ高潮が生じたことが認定でき、これが前認定の堤防高五・七〇メートルを一メートル以上上まわるものであることが明らかである。したがつてかかる異常高潮の結果決壊した本件堤防については決壊したこと自体をもつて瑕疵があつたと認定することはできない。
十一、以上のとおりであるから、本件堤防には設置または管理の瑕疵はなく、その決壊は伊勢湾台風によつて生じた異常高潮という不可抗力に基因し、これによつて原告に生じた損害も不可抗力によるものといわざるを得ない。したがつて被告は原告の損害を賠償すべき義務を負うものではない。
よつて原告の本訴請求は損害額の審理をなすまでもなくその原因において理由がないから、原因について中間判決をなすことなく終局判決によつて原告の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 木戸和喜男 松下寿夫 牧野利秋)
第一図面、第二図面<省略>